
ニルギリ北峰西面の記録
記:青木 達哉
再挑戦へ
青き山、ニルギリ。3つの峰から成るこの山は、7061mの北峰が一番高く、その北壁は強烈な傾斜の氷雪壁となり、さらに西面は誰も足を踏み入れたことのない未知のルートとなっていた。
7年前の2018年、私と三戸呂は未到であった北壁(写真 1)のダイレクトに登るルートに挑戦した。しかしあまりの傾斜の強さと不安定な雪氷に苦戦し、プロテクションの取れない壁に敗退した。下山後、2人でまたこの山に挑戦しようと約束した。
その1年半後、世界中で新型コロナウイルスが大流行しパンデミックに襲われた。一年足らずで世界全体が大きく変わっていった。山を愛する人間も山に行きづらくなり、ちょっとした行動が世間の攻撃の対象にもなった。行動しづらい世の中になり生活そのものも厳しくなり、いつまで続くのか分からない不安な日々が続いた。
この間にお互いの生活環境も大きく変わった。仕事がなくなったり、大きな手術をしたりしたが、それでも私たちの頭のにはニルギリがあり、どうやったらあの山に自分たちの、自分たちらしい登攀ラインを描けられるだろうか、そんな思いを持ちながら過ごしていた。
時が解決するかのように、年月が経つと世の中の風潮も少しづつ元の世界に戻っていった。山にも行きやすくなり再び三戸呂と組んで登った時、自然とニルギリの話題になった。「そろそろ目指そうか。」私たちは敗退した時の気持ちを忘れることができず、本当はもっとできたはずなのでは?という罪悪感とも言える後悔の気持ちが強く、再びこの山に挑む日を望んでいた。言うまでもなく、再挑戦の決まりはあっという間だった。
2024年の秋、私と三戸呂は再びネパールの地に足を踏み入れた。変わらないカトマンズの喧騒感と、タメルの雑踏が懐かしく心地良い。初めてカトマンズを訪れたのは12年前。その頃に比べれば多少変わった気もするが、人と排気ガスの交差する街は変わらない。それに慣れてきた自分が少し大人になった気分だった。ネパールに到着して2日後、ポカラに向け出発した。その翌日にはニルギリ北峰の麓の街、ジョムソンに到着した。
6年ぶりに見るニルギリ北峰はやはり大きい。よくあの壁に挑戦しにいったもんだ、と他人事のように感じてしまった。
未知なるルート
再チャレンジを約束した日からニルギリ北峰の写真をインターネットでかき集め、ルート取りを探している時、ある1本のルートが目にとまった。それはまだ誰も足を踏み入れていない西面(写真 2)からのルートであった。北峰西側の直下に存在する未知の谷からアプローチし、そこを突き詰めると正面に1200mの西壁が現れる。そしてその壁をダイレクトに登る。冒険的要素と登攀の難易度が合わさる登山となり、予定するベースキャンプからは標高差3000mの長大なルートとなる。こんな登山ができたら人生最高に幸せだろうなと思いながら、谷の中の様子を想像したり、稜線にある巨大なセラックの落ちる場所を想定したりした。ポジティブな性格のおかげで、谷さえ攻略できれば登れる。そう思っていた。
未知の谷
私たちは5400m(写真 3)の峠と6012mのピーク(写真 4)で2回の高所順応を終えた後、4000mのベースキャンプへ入った。ベースキャンプから見えるニルギリはとても美しい。対岸にはダウラギリとツクチェピークが聳え立ち、再びこういった世界に戻れたことに幸せを感じていた。
ベースキャンプに到着2日後、さっそく偵察へと向かった。この偵察で谷の中を突破し、西壁の基部に辿り着く。そこで西壁と西稜の偵察を行う予定だ。まずは谷の突破。それができなければ何も始まらない。偵察の初日は、ベースキャンプから歩いて2時間ほどの4200m付近にアドバンスドベースキャンプを構えた。そこからようやく2年間想像してきた谷の中を望むことができた。まるで初対面の恋人に会いにきたような期待と不安が混ざる気持ちで谷の中を眺めた。
谷の中には2段の岩壁(写真 5)が立ち塞がっていた。1つ目は傾斜は緩く、登るのは容易いだろう。しかしその先に見えた2段目の岩壁が巨大だ。100m以上ありそうな垂直の壁と、上部には10m程の巨大なセラックが乗っている。右岸側は落石が頻発しているようにも見える。想像を超える岩壁を目の前にして、頭の隅でひっそりと存在していた「初日敗退」という文字の輪郭が大きくなっていた。双眼鏡を見ながらクラックを探したり、セラックを迂回できるルートを探したりしたがここからではしっかり見ることができない。
まだ見えていない左岸に希望を託し、その日はテントに戻った。その晩、私達に笑顔はなかった。
翌日、偵察用の登攀ギアとテント、食料を背負い、いざ谷の中へ入っていく。1時間ほどで最初に見えた1段目の岩壁の基部にたどり着いた。第一岩壁の傾斜は緩いものの、常に大きな落石が頻発していてとても登れるルートではなかった。しかし希望を抱いていた左岸側を見ると落石が比較的少ない。そしてよく観察するとクラックを派生しながら壁を超えて行けそうな1本のルートが見えた。ここだ。さっそく登攀準備をし、壁に取り付いた。岩は脆く、傾斜も徐々にキツくなっていく。幸いプロテクションは豊富に取ることができ、垂直に近いコーナークラックを気持ちよく登っていく。こんな恐ろしい谷の中で楽しく登れているのが笑えてくる。最後に少し被ったクラックとなるが、アックスのピックがしっかり効いているので爽快に登り切った。
前夜の気持ちが嘘のように明るくなった。テラスにはここぞとばかりにしっかりとしたクラックが存在し、安定した支点を作ることができた。そこからさらに60mいっぱいにロープを伸ばすと、今度は待ってましたと言わんばかりの岩小屋(写真 6)に辿り着いた。落石だらけの谷の中で唯一の安息の地である。まだ明るかったのでテント場の整地をした後、2段目の岩壁の偵察に向かった。正面の壁はやはり弱点はない。遠目にクラックかと思っていた黒い筋は水流の跡で期待は思いっきり裏切られた。しかし、やはり左岸側に登れそうな氷瀑を発見。
明日はそこからの突破を試みることにした。その晩は谷の半分を攻略できた安堵感で、2人とも笑顔であった。
2段目(写真 7)。昨日の偵察から予定通り、ルートを左岸側からアプローチしていく。目的の氷瀑は舌端に穴が開き、所々脆い場所がみられた。さらに左岸に移動すると傾斜のゆるい氷と岩のルンゼを見つけることができた。決して難しくない氷と、簡単なミックス帯(写真 8)を60mいっぱい登っていく。左に2段目の岩壁を目にしながら上部のセラックへと近づいていくことができた。さらにロープを60m伸ばし、セラックの上へあがった。懸念していた2段目の岩壁の突破に成功した。
標高も5000mを超え、体も鈍い。セラックの上から三戸呂にトップを変わってもらい氷河地帯を詰めていく。左岸の上部1000m付近には巨大なセラックをあるため、ルートを右岸に取り、谷を登高する。5400m付近までくると景色が開け、ついに西壁を目の前に見ることができた。西壁の基部は広大な雪原で落石の危険性もない。こんな地がこんな谷の中にあるのかと思うと感慨深い。頭痛を感じながら、西壁(写真 9)と西稜(写真 10)の写真を撮り本日中にベースキャンプまで下ることにした。
西稜への挑戦
休養中のベースキャンプではどこにルートをとるか話し合った。予定通り西壁をダイレクトに直上するか、西稜のコルに一度出て、西稜を登っていくか。数時間話し合い、私たちは西稜から挑戦することにした。大きな理由としては、西壁の出だしにある100mほどのロックバンドと西壁の中心にある雪崩痕、そして稜線に覆い被さる巨大な雪庇群だ。ロックバンドは傾斜も強く、場所によってはオーバーハング気味にも見える。雪崩は多分大丈夫だろうが、登攀中に襲われると非常に厄介だ。そして最後の雪庇越え。過去に何度か雪庇越えに苦戦した覚えがあり、それを7000m弱の標高で行うのは非常に辛い。それに比べれば西稜はコルまで上がれば所々存在するミックス帯の登攀で頂上まで行けそうに感じた。何よりも山頂を踏める可能性を西稜に感じていたのが大きな理由になる。
アタック
出発前、ニルギリに見立てた岩でプジャを行い、再びあの谷へ向かった。ルートは分かっていて、フィックスも張ったものの、頻発する落石の中を登り、今にも落ちそうなセラックの下部を通るのは気持ち悪い。こうゆう気持ちはいつになっても慣れないものだ。しかしいざ入ってしまえば嫌な気持ちは無くなり、早く越えてゆこうという前向き?な気持ちになる。初日は安全な岩小屋までとした。谷のアプローチ中に稜線にあるセラックの崩壊で谷中が真っ白になる以外は至って順調だ。
2日目は6200m付近を目指して出発した。(写真 11)標高差1000mアップだが、コルまでの道のりはそこまで険しくないと判断していた。しかしその判断は甘かった。5400mの雪原から望むコルは目と鼻の先に見える。しかしここはやはりヒマラヤだった。こんな谷の中なのに水平距離がとても長い。加えて右岸からの落石と、ところどころ出てくるミックス壁に登攀で思うようにスピードが上がらない。おまけに午後から天気も崩れ始め、コルに出た頃には15時近くなっていた。コルでは雪と強風に体を痛めつけられながらテント場の整地を行った。ようやくテントに潜り込んだ頃に風も止み、穏やかな夕飯となった。コルから北側を望むことができ、また、ジョムソンの街を眺めていると、6年前に敗退した景色を思い出した。あの時も眼下に広がるジョムソンを眺めていた。
3日目。日が出ると同時に出発。急な雪壁をラッセルを交えながら登高していく。傾斜は強いがなんの問題もない。しかし稜線ならではの強風が吹き荒れていた。多少の風なら大丈夫と自信を持っていたが、あまりの寒さに体がどんどん冷えていった。冷えても動けば温まる。そう言い聞かせながら2人でラッセルをしながら雪壁を登っていくものの、これ以上は指先も足も凍傷になるかもしれない、と思い、2人とも阿吽の呼吸で雪壁を掘り始めた。小さな足場を作って、ヒラヒラのテントを被り、暖をとった。身体中がガタガタ震え、茶を飲みながら体を温めた。「陽が射すまで待とう・・・」2時間ほど身体を震わせているとようやく陽が当たり始めた。さっきまでの寒さは嘘のように私たちは再び登り始めた。そこから先は深く傾斜の強い雪壁でなかなか距離を稼ぐことができなかった。ミックス帯の基部まで辿り着いたところでC3を設営した。
朝の寒さに身体がやられ、鼻水を啜りながら夕飯の準備を行なった。この1日で2人ともだいぶ消耗し、頭痛に加え、青木は多少の吐き気を感じていた。天気予報を衛星で確認ながら明日からの行動を話し合った。予報では明後日から崩れるらしい。天気が保つのは明日までの見込み。この稜線で天気が荒れるのは想像以上に厳しいだろう。下手したら動けなくなる可能性もある。山頂まで標高差800m。最初のミックス帯を超えてしまえば傾斜は一気に緩くなる。私たちは、明日に山頂アタックをすることに決めた。
4日目。いつも以上に早めに出発。まだ辺りは暗く、ヘッドライトの灯りを頼りにミックス帯の陰影を縫って登っていく。垂直に近い雪岩を超え、脆いスラブを西壁側にトラバースすると広い雪壁に出ることができた(写真 12)。ロープをめいいっぱい伸ばすと小さなボルダーに辿り着いた。支点構築しながらあるものを発見した。懸垂下降で残置された麻のようなロープスリングであった。きっと初登攀時に使われたものだろう。長い歴史に触れることができ、気を引き締めて上を見上げた。もうしばらく登れば傾斜が緩くなりそうだ。ここから三戸呂にトップを変わってもらい登高していく。傾斜の強い雪壁は私達の足を重くさせる。さらに数100メートル上がると上部に見えた垂直の雪壁が立ちはだかった。三戸呂が渾身の登りでそれ越えると、目の前の景色が一気に広がった。北壁を覆うよう張り出す雪庇と、足元から綺麗に山頂に続いている稜線。山頂は巨大な雪庇の一部だった。
6年前、三戸呂と2人で目指し、6年後の今、再び三戸呂と目指した山頂が目の前に見えている。なんだか夢を見ているような気持ちだった。
6600m
三戸呂が先頭でロープを伸ばしてくれる。トラバースをするような格好で稜線を詰めていく。なんてことない、少し急な雪壁だ。何メートル伸びただろうか。山頂に続く稜線が永遠に感じる。6500m付近から私の頭は夢を見ているようだ。体調もそれに合わせるように悪くなっていた。足元がふらつき、意識が定まらない。昨夜からの吐き気は嘔吐となり、体がこの標高を拒んでいた。6600m(写真 13)。一度合流し、2人で山頂を眺めた。描いた夢と想像した登攀ラインがもう少しで繋がりそうだ。6年前は山頂がどこにあるのかもわからない状態で敗退した。今は目の前に見えている。しかし私の身体はこれ以上の標高を上げることを嫌がっているようだ。三戸呂が下りようと言った。私は何も言えなかった。
チームとして
下山後、三戸呂は「良い登山だった。」と言ってくれた。あそこで山頂を諦めたことに後悔はないと言った。どうすれば登れたか。たらればの話ならいくらでも出てくるだろう。だけど私たちの登山はあそこで終わった。チームとしての登山が大切だからと三戸呂は言った。私は良いパートナーに出会うことができた。
Profile
青木達哉 Tatsuya Aoki
アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン市出身の日本人登山家・アルパインクライマー。
大学から登山を始め、2006年カラコルム山脈 K2( 8611m) 南南東稜を世界最年少で登頂。また、2012年にはキャシャール南ピラー初登攀、 2013年に第21回ピオレドール賞(仏)及び、アジアピオレドール賞を受賞した。 海外・国内問わず、魅力的な山々に挑戦し続けている。一児の父。

ニルギリ北峰挑戦で使用された商品
CAMPブランドについて

━ カンプ ━
安全で信頼される道具を世に送り出す、
北イタリア生まれの老舗ブランドCAMP。
北イタリア北部の地で、つねにプレマナの山々とともにあり続けるC.A.M.P.。
堅実なモノづくりにより多くのクライマーや山岳ガイドと確かな信頼関係を築き上げながら、
さらなる頂点を目指す姿勢は、創業時から変わることなく今なお受け継がれている。
2009年には開発・生産を担ってきたCASSINブランドと統合し、
軽量で実用性に優れた幅広い商品群に、エキスパート向けに特化した商品群が加わったことで、
『アウトドア・カテゴリー』は現代アルピニズムの特長でもある【ライト&ファスト】を念頭とした、
軽量でタフでテクニカルなアウトドアクライミングギアを数多く開発している。